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2010年8月

連載/瑪瑙ルンナ8

自分の事が専門のルンナです。
今回はそれに拍車をかけましょう。

「自慢!!」というやつ、です。(今までもさんざん、、、、、?)

今までは子供時代の回りの環境についていろいろ述べましたけど、肝心の自分はどうだったか??
(ここで言うのは、小学校低学年です。)

その頃、、、、、それがですね、「完璧」だったんですよ。

小学校入学の時、商店街の写真館で撮った写真を見るとその完璧さが一目でわかります。
もう自信満々な、傲慢とさえ思えるような笑みをうかべてます。
黄色い帽子にピンクのランドセル。(これはクラスで私ひとり。あとの女子生徒は全員赤でした)
そして、そのころ草履袋という(今から考えると、すごい言葉ですね!)上履きをいれるバッグがあったのですが。それがピンクでディズニーの百一匹ワンちゃんでした。これは何か理由があったのでしょうか?
母の趣味だったのでしょう。

後で、聞きましたが、写真館で撮るようなフォーマルな写真にそういう安っぽいキャラものを、
持っているというので、父の親戚の間では、私がかわいそうだと問題になったそうです。(もともと結婚にも不賛成でしたしね)
しかし、当の私は気に入っていました。ピンクのランドセルにピンクの上履き入れで、ディズニーは学校や幼稚園でもご推薦で、しかも唯一のキャラもの、そしてそのクオリティーも確かだった事はたしかです。


話がそれましたが、自慢を続けさせて頂きます。

まず、第一の自慢は、私は顔がかわいかったんです!!
子供にありがちなでっかい頭で、、、、。
(これが大人になってからはマイナスになるのですが、子供の頃はこれが利点になりました)
そして、頭もよかったです。(ほとんどが5段階評価の5)
運動も出来、運動会では、たいてい一位。学校内の絵のコンテスト、お習字のコンテストなどでは、かならず入選していました。
先生からも気にいられ、クラスでも人気者、人望もあり毎回一学期の学級委員をしてました。

その頃、学校のイベントで、学芸会というのがありました。
音楽の先生などが中心になってやる年に一回の一大イベントで、舞台にたてるのは学年200人くらいの中から、メインキャストの10人くらいで、あとは楽器、コーラスなどの音楽に回り、何も関われない人がほとんど。一方舞台に出る生徒は親がらみで衣装を作ったり、クラスが終わってからも残って練習をしたりで、学校側もかなりチカラをいれてました。

私が3年生の時の演目は、白雪姫でした。
そして、私は!!!
なんとその年、メインの「白雪姫」自身!!に選ばれたのでした!!!!
(これが原因で今でも「白雪姫」は他人とは思えない。少なくとも、親戚関係)

競争率は200分の1ですよ!!
勢いってスゴいですね〜〜。
ほんと、こわいもの知らず!です。
何も特別な事はしてないのに、何をやってもうまくいく!!!!
何をやっても注目され!!!愛され!!!評価される!!
今考えたら、この時が人生のピークでした。
(ここでこの自慢話は終わりにさせていただきます。)

そうですね、この白雪姫を境に、4年生くらいから、だんだん勢いが落ちてきました。

それは何故かというと、、、、。人生で最初に学んだ不条理です、、、、、。

「身体上の不利!!」

私は皆にくらべて、身長が伸びなくて「背が低い子供」になってしまったんです。
その頃の私はクラスでも二番目に小さくなってしまいました。
他の子はどんどん伸びて、運動なども体格の違いで先をこされてしまうようになりました。
大人のような体型の子供がどんどん現れてきて、そういう子が目立ち、もてはやされるようになりました。
チビの私はだんだんサイドの追いやられてゆきます。
ただ、急にというわけではなく、成績もまだよかったし、あいかわらず学年代表で式典などで挨拶をしたりなどは、ありました。

学芸会のキャスティングは毎年、話題の中心でした。
去年の白雪姫は今年はどうなる???という言ってみれば、ハリウッドのオスカー並みです。
その次の年は乙姫様でしたが、私に役はありませんでした。
(ちなみに、小学校最後の年は「裸の王様」だったのですが、私は「詐欺師の洋服屋」で返り咲きました。今考えると、白雪姫より、自分の人生はこっち!!だったんですね)

その他に、だんだん私のピークが衰退している例として、部活でソフト部にはいっていたのですが、私は最初、ショートだったのですが、背が低いというだけでセカンドになってしまい、これは屈辱でした。
ショートというのは、勢いのあるボールがよくくるし、ファーストに送球してもかっこいいので、自分的にはすごく気に入っていたのです。ところがセカンドというのは、ボールがきても、当たりそこないみたいなものが多く、送球する機会の多いファーストも近いので、なんか「ひょい」ってかんじで、投げる派手さがないですしね。打席はずっと一番バッターだったんで、もちろん3番、4番はもっと体格のいい子でした。

それから、学校とは別に地域でやっている「鼓笛隊」というマーチング・バンドがあったんです。
ボーイ・スカウトのようなユニフォームを着て、町のイベント等に呼ばれて、演奏をするのです。

そこでも、そういう大人のような体型の子が花形で、バトン・ガール(チアガールのようなもの)になっていました。これは他の学校の子も参加していたので、コミュニティーの中から選び抜かれたものすごいかわいい子ばっかりでした。
そこで私に与えられた担当はベルリラという楽器でした。
テッキンをクビからぶら下げて立ったままとか、歩きながら叩くヤツです。
小柄だった私にはこれは重かったです。地面に埋まりそうでした。

一時は白雪姫までやったのに、今では、重い楽器をクビからぶら下げて歩きまわるサーカスのピエロ!ハリウッドの落ちぶれ大女優の気持ちを10歳にして体験しました。

音楽といえば、母は私と妹をヤマハ音楽教室というのに通わせていました。
これは門司港をはなれ、隣町の小倉にありました。小倉は門司港より都会で、これに通うのに家族みんなでオシャレをして出かけていきました。
ここでは、子供に楽器全般を親しませるという目的だったらしいのですが、私の担当はなぜかいつも、カスタネットかトライアングルで、(ピアノや吹奏楽器などがあるにもかかわらず、です。)
母が先生に文句を言っていたのを子供ながらに覚えています。(母、強し!)
そのリベンジかなんか知りませんけど、その後、ピアノを7年間も習わされました。
この頃は女の子はピアノを習うのはわりと普通でしたが、私は本当に嫌いでしたね。
練習も嫌いだったし、やっていて何のおもしろみもありませんでした。
鼓笛隊でベルリラ担当になった理由も、私が「ピアノを習ってるから、鍵盤になれているだろう」という事だったらしいので、ピアノをもっと恨みました。

この私のストレートでない音楽体験は、この後の私の人生に、そして今でも、チラチラを顔を出すようになるんです。

今思うと、ヤマハ音楽教室の先生は先見があったのですよ。
私は鍵盤じゃなくて、リズムなんですよね。鼓笛隊の時もバトンガールじゃなくても、せいぜい小太鼓がやりたかったです。小太鼓をやってる子達は振り付けがあったりして、楽しそうでした。イギリスのバンド、フーのドラマーのキース・ムーンのような。。。。(ホントかい?)

ま、でもだからといって、人生、捨てた訳じゃありませんよ。まだ子供ですからね。笑
先が長いです。

そういう風に不条理を学びながら、夢中になったのは、、、、、、、そうです!!
その頃、世間で騒がれていたグループ・サウンズでした。

L*

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連載/瑪瑙ルンナ7

7回目になりました、、、、。
だんだん、書くのもスローダウンしてきました。
こんなもん誰か、読んでくれてるのでしょうか?(という疑問、、、)

こんなどうでもいいような事を、つらつら書くのはただの暇つぶし、、かもしれません。
でも、いいんです。
山のこだまのように、「ヤッホー」と呼んでみて、自分の声が
ヤッホー〜、ヤッホー〜〜〜、ヤッホー〜〜〜〜〜〜ヤッホー〜〜〜〜〜〜〜〜
(注;だんだん字が小さくなっていってください。)
ああ、自分は自分なんだ、自分にしかわからない自分が自分に戻ってくる。これだけでいいような気もします。
それにしても自分の、小さい頃の覚えている限りの記憶を書いていくというのは、面白い作業ですね。
これは他人様には、わからないでしょうね。
自分の事は自分が一番おもしろいです。 人にはわかりません、自分の事なんで。

でも、よく自分の事ばっかり話す人がいますが、面白くない話が多くないですか?(例外もありますけど)
話が面白くない人に限って自分トークが多いように感じます。
「アタシってぇ〜こういう人なの〜」と言われると、吐き気がします。
表面的には「へえ、そうなんだぁ〜」と、かわしてますけど、
心では「それがどうしたぁ〜〜??」と吐き気をもよおしています。

なので私も他人様に吐き気を与えてるのかもしれませんが、
ま、そんな事は、私の知ったこっちゃない、、、と、しときましょう。

で、「自分トーク」続けます。

以前、私が行ってた幼稚園の話をしましたけど、その写真がウェブに出てたんです!!
ちょっと調べてみたら、すぐ写真がありました。

これは戦前の絵はがきのサイトなんですが。
この上の写真は関係ないですので、忘れてください。
下のを見てください。

コレですよ!!真ん中にまる丸い屋根の建物が私の行った幼稚園です。
すごいですね。絵はがきになるなんて!!
左下に見えるのが、火事になったという仏教系の幼稚園です。
ちなみに右に見える塔は、英霊を奉ってある記念塔で、今でもあります。


Block_image1_14

あと、ここにもありました。建築家のサイトです。
この上の写真です。
(下のは関係ないです)
クリスチャン系の幼稚園でYACAがやってました。
今見ても、素敵な建物ですね。でももう取り壊されたそうです。


Block_line1_14


非常に貴重な映像が見つかり、ネットってすごいですねー。

と、いう結論で今回は軽く終わります。
L*

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連載/瑪瑙ルンナ6

母は養女でした。
米屋のじいちゃんばあちゃんは、本当の親ではなく、実の両親は、ばあちゃんの姉夫婦だったのです。
それを聞いた時はちょっとショックでした。「自分のそばにいるじいちゃん、ばあちゃんは本当のじいちゃん、ばあちゃんじゃないんだ、、、、」と思って。
でも、その頃は戦争や病気などで片親になる事が、そんなに珍しくなく、世間一般でもよくあったみたいで、そういう題材をあつかった、継母ストーリーというのがポピュラーだったんですよ。時代の風潮っていうか、、、。なので、子供の自分はかえってそういう流行のストーリーの主人公になったみたいで、その感情にひたっていました。英語だと、ドラマ・クウィーンですね。

実際の話はですね、、。
実の祖父は妻が肺病で亡くなったので、5人いた子供を長男だけ手元に残し、あとは親戚中に養子、養女の出したのです。母の親戚は、絆がとても強く、養子、養女に出したといっても、皆でしょっちゅう集まっていたので、子供にとってそこまで残酷な事でもなかったように思います。
母は兄姉弟がバラバラになってしまったので、皆で遊べなくなったので、淋しかったとは言ってましたが、親を恨むというのは、なかったように思います。
私が小さい頃の記憶では、母の実兄や弟の所で頻繁に法事があり親戚中が20人くらい集まり、しょっちゅう、まあ、お食事会というか、飲めや歌えやの会合だったと思います。カラオケはまだありませんでしたけれど、長男がアコーディオンを弾いて、ばあちゃんや他の親戚のおいちゃんが歌ったり、麻雀をやったり花札をやったりしてました。もちろん、お金もかけてました。今でいう賭博ですね。(汗)でも、やってる時はものすごく盛り上がってました。


母の5人の兄妹を紹介します。
一番上の長男。
その頃は実父と同居していました。本家を継ぐとか、、、ま、そういう事です。
本家は敷地が大きく畑があって、その中に精米所や家畜の飼料の工場、養鶏所などがあり、今になってそれらを思い出す限り、本当の祖父も長男のおいちゃんもなかなかの実業家だっんですね。
本当の祖父はあまり子供と遊んだりしなかったので、あまり覚えていませんが、新しいものが好きで、子供の私からみると、なかなか文化的なおいちゃんでした。
そこには生まれて始めて見たものがたくさんありました。
たとえば、三面鏡。テープレコーダー。それからリビングに日本の画集などもおいてあり、それをこっそり、めくって「地獄絵」というものを始めてそこで見ました。子供にはかなり印象的なものでした。

その下の長女はもう結婚していたので、あまり交流はありませんでしたが、ものすごく美人で、商社の人と結婚し、神戸の芦屋の、当時出来た始めての「マンション」というところに住んでおり、(それまではアパートというものしか存在しなかった)うちの家族は、大阪万博の時に始めてそこにお邪魔したのですが、マンションとアパートとそんなに変わらなかったのを覚えています、、、、。
違いはエレベーターがあるかないかという事ぐらいでしょうかね、、、。自分の住んでいるところにエレベーターがある(つまりビルディングに住む)というのが、かなり画期的な未来的な時代でしたから。

そのおばちゃんはその後、病気になり、まもなく亡くなりした。
それ以後、ウチの家族とはまったく交流がなくなりました。

そして、次女の大阪の嫁いだおばちゃんも体が弱かったのを覚えています。二回結婚しました。

そして、母とその弟です。
ふたりは近いところに住んでいたせいもあって、とても仲がよかったです。
我々もしょっちゅう、そのおいちゃんの家にお邪魔してました。
カラーテレビがウチにはなかった時も、ここにおじゃまして、「サザエさん」を見せてもらったりしていたので、ウチよりリッチだったのは間違いないですね。

その家というのがカッコよかったです。門司港でも一番景色のいい丘のテッペンにあり、大正モダンでした。決して広い家ではありませんでしたが、庭は錦ゴイが泳ぎ、馬をつなぐ小屋がありました。玄関は横にスライドするものではなく、スイング式のドアで、そして中央にダイヤ型にくりぬいたステンドグラスの窓がついていて、玄関もタイルで六角形でした。
景色のよい居間は小さかったけれど、掘りごたつで、窓は出窓のフレンチ・ウインドウ、客間は日本間で、居間よりも広く、ふすまを挟んでふたつありました。床の間があり、そのに兜の見本が置いてありました。

その頃の日本の家というは、建て増しなどを繰り返し、日本式と洋風がまざりあって和洋折衷というような家があたりまえでした。
石原祐次郎やクレイジーキャッツなどの映画にもあるように、日本間に洋風家具なんてものも普通でしたから、今思えば、不思議ですけど、、、、。

あ、今回はなんか覚えてることをつらつら書くだけになってしまいました。
すみません、この辺できりがないので、やめます、、、、。突然ですが、さようなら。
L*

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連載/瑪瑙ルンナ5

その頃の私のファミリーについて、ひき続きです。

まず、年功序列で、じいちゃんから。
お米屋をやっていたじいちゃんは、口数の少ない、日本昔話に出てくるような働き者でした。
山口県の農家出身でしたけど、その昔門司港で鉄道関係の仕事をして、「ひとはた上げよう」と移り住んだらしいですが、結局、町のちっちゃいお米屋さんをやることに落ち着いたらしいです。
この米屋を来る日も来る日も、ばあちゃんと、(ばあちゃんが亡くなってからもずっと、お手伝いのおばちゃんと)死ぬまで続けました。
じいちゃんの実家は、めちゃくちゃ田舎で、田んぼしかないようなところでした。自分でも「水飲み百姓」出身といっていたので、決して裕福ではなかったと思います。
じいちゃんにはお兄さんがいて、我々子供が行くと寄ってくるのですが、いつも酒臭く、今から考えるとアル中でしたね。じいちゃんもお酒が好きで、旅行にはかならず「ワンカップ大関とちくわ」を持参してました。
あまり子供といっしょになってふざけりしない、無口でおとなしいじいちゃんでしたけど、一度だけ、遊園地の乗り物で、ロデオの馬を見つけて「小さい頃、裸馬に乗りよったけ、こんくらいはできる」と、自慢気に馬の背中にまたがって、揺れてました。(世間一般に、「じいちゃん」という存在は、遊園地の乗り物に一人では乗らない)その時に思いましたね、「アタシのじいちゃんは昔、カウボーイだったんだ」って。

その寡黙なじいちゃんにくらべると、ばあちゃんは派手でした。米屋なので、まず愛想がよかった。声もはきはきして、明るかったですね。お酒で言えば、ワンカップをちびり、ちびりのじいちゃんに比べると、ばあちゃんは、ダイナミックで、昼間から台所でお酒の一升瓶を持ち上げて、ぐわ〜とクチ飲みしてました。(マジ、アル中ですね。汗)
宴会なんかでも酔っぱらうとよく歌を歌ってました。
それがものすごく上手いんですよ。色も黒くて、そばかすがものすごくありました。はやりモータウンの血がどこかにはいっていたのでしょうか。
何か情熱的で好き嫌いもはっきりしていました。なので人の悪口もしょっちゅう言ってました。
しかし子供には大変な愛情を注ぎました。
いっしょに買い物に行ったら、欲しいアイテムをまず選んで、値段のチョイスがあれば、必ず高い方を買いました。それは玩具屋から、八百屋から魚屋まで、すべてです。
祖父母の家は借家でお風呂もなかったけど、やはり子供達にはいい生活のクォリティーを与えたいという気持ちがあったと思います。

じいちゃんとばあちゃんはお見合い結婚でした。その頃はそれが普通でした。
お見合いの時、ばあちゃんはずっと下を向いたままだったので、じいちゃんはばあちゃんの顔を見ないまま結婚したらしいです。その当時、親の権限は絶対で、お見合い結婚というのは、親がいいか悪いかを決めてオッケーを出すので、ほとんど本人の意志とは関係ないところで、結婚というものが決められていました。
戦前まで自分の人生はほとんど親が決めていたようなものですね。

私が大人になって聞いたのですが、じいちゃんとばあちゃんは「キッス」というものをした事がないと言っていました。その時、「キッス」というものは、西洋のものなんだと悟りました。
おそらく映画などで広まったのでしょうね。
サムライの頃は、そんなものはないわけです。

じいちゃんとばあちゃんは結婚しましたが、子供が出来ませんでした。(理由は聞いた事ありません)
なので、ばあちゃんは、自分の姪を養女にしました。
それがウチの母です。


L*

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