日記・コラム・つぶやき

連載/瑪瑙ルンナ10

子供の頃の遊びについて書いてます。
母が働いていたので、幼稚園と小学校二年までは、学校からお米屋さんをやっていた祖父母の家に
もどり、そこで時間を過ごす事が多かったのですが、一番ハマったのは貸本屋というやつです。
もう今はありませんが、その頃は今のコンビニくらいによくありました。
レンタルビデオ屋みたいなもんですね。(それさえももうなくなりつつありますが)

そこで私が借りていたのは、漫画本です。それもそれらは貸本専用でした。
あ、九州だけ???
今でも古本屋でみかけると必ず買ってるんですけど、若木書房というのがその大手だったと思います。
たとえば「こだま」「風車」「ゆめ」などです。後ろをみると月刊とかいてあるので、大きい都市では売っていたのでしょうか?
門司港では少なくとも貸本屋にしかありませんでした。
文庫本のように、一冊が読み切りで、
表紙は透明のビニールでカバーしてあって、20x15センチくらい、厚さが二センチくらいありました。幼い記憶にあるのは、表紙の絵と中の漫画家が違う事がよくありました。
これは今は考えられませんよね?
表紙は当時の売れっ子イラストレーターの高橋真琴とか、ものすごい濃厚で書き込んだ絵にもかかわらず、実際に中を明けてみるとまったく違うタッチの漫画だったり。。。それは普通でした。
でも子供でしたし、オタクじゃなかったんで、そんなにイチイチ作家の名前とかチェックしてないです。ストーリーはほとんどが、継母の話とか貧乏で可哀想なお話で、まだ戦後なかんじですね〜。世相を反映してましたね。あ、萩尾望都とかよりもずっと前ですよーー。苦笑
一冊が読み切りだったので、よく借りました。

それから、話はそれますけど、この頃、祖父母の家にはお風呂がなかったので、近くの銭湯にもよく行きました。幼稚園の頃は男湯にも女湯にもはいれる「ジェンダー・フリー状態」!!!
右が男湯、左が女湯で「今日はどっちにしようかな〜?」って選べるって、これはすごいフリーダムですよね!!!?
もちろん、幼稚園ですから大人と行ってるので、じいちゃんと行ったら男湯、ばあちゃんと行ったら女湯でしたけど、銭湯に来ている人もほとんどご近所で知ってる人ばかりだったので、あまり誰を行ったかなどは気にしませんでした。隣のヤクザのおいちゃんなんかもお風呂に来てて、さすがに全身入れ墨の深作映画でしたね。でもご近所なんで、回りも普通に接してて、銭湯のイチシーンを作ってましたよ。

あ、映画と言えば、覚えているのは、お風呂の脱衣場に映画のポスターがはってあったんです。
銭湯は人が集まる場所だったんですねー。広告をうつ場所でもあったわけです。
風呂上がりにそういうポスターをじっと眺めてる人もいたんでしょう。

そういえば町中にも映画のポスターをはるボードみたいのがありました。
ヤバい映画のポスターもあったと思います。でも子供だから見せないほうがいいというような
規制はゆるかったような気がします。一度、アバズレ女のシャブ中のようなポスターがあって、
何故かそれが、子供ながらに「かっこいい」って思って、「この映画が見たい」ってばあちゃんに言ったら、「それはダメ!」って言われたのを覚えています。
ばあちゃんの判断は正しかったと思いますよ〜。苦笑

今では大人になって、見たいものが(特に「マル秘」とついてるもの)何でも見れるので、嬉しいです。

L*

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連載/瑪瑙ルンナ9

最後にこの連載を書いたのは8月!で、現在は12月なので、もう三ヶ月もたってしまいました。
お待たせしてすみません。(って、、、、、誰も待ってないかもわかりませんけど)
ともかく仕事ばっかしてて。

それはともかく。。。。さっさと続きを書きます。

、、、、えっと小学校の話。。でした。
頭もよくて、運動も出来たが、体が小さかった事で、高学年になるほど回りからの注目度がへり、だんだん人生の不条理というものを学んでいってたその頃。。。というのが、前回でした。
そしてその後、グループ・サウンズというポップカルチャーに目覚めるという。。。。

あ、しかし。このパンドラの箱を開ける前に。。。

そういう社会的な現象と自分と結びつける前の自分は、何をやっていたのでしょうか?
無意識の自分は何をやって遊んでいたか?という事ですけど。
つまり自分のアソビの歴史といいますか。。。これ、かなり重要でした。

まず、幼稚園の頃までは、家が山の上にあったので、しょっちゅう家の裏の竹やぶに行ってました。
となりに細身のパンツしかはなかい、マンボちゃんっていう男のコが住んでたので(ウチの母が命名)
そのコとよく遊んでました。裏山には山水も湧いていて、地滑り防止のダムのようなセメントの堤防もあり、よくおにぎりをもって、ピクニックに行ってました。
今考えたら、子供には素晴らしい環境でしたね。

マンボちゃんとはそれまでで、その後、小学校にはいると、新しい家に引っ越したんです。
小高い丘一体をガーと切り崩して新しい宅地にした、高度成長を絵に描いたようなエリア!!
夢のマイホームです!!
モダン住宅!!!
ミッド・センチュリーのコピーのコピーのこぴーのような家(もちろんコピーするごとにお値段も質も下がってゆきます)
が次々に建っていきました。

この引っ越しで、知り合いのご近所さんもいなくなり、いっしょに遊ぶ子供もいなくなったので、私と妹と弟は3人でインドアでシュミレーションをやる事がメインになりました。(つまり「ままごと」です)

当時はですね、、、女子の人形あそびといえば。
りかちゃん、バービー、タミーちゃん。当時、この三人でした。
リカちゃんはかわいい系。バービーはセクシー系。タミーちゃんは田舎系でした。

リカちゃんは今でいうアニメに出てくるような顔です。
リカちゃんハウスというものがあり、わたる君というジャニーズ系だけど、あまり人間的にはおもしろくないようなボーイフレンドがいて、くるみちゃんというただ子供っぽいだけの妹がいました。確かお母さんはファッション・デザイナー?だったような気がします。

バービーは当時アイラインが濃かった。カツラはあったけど、親戚はいませんでした。
ボーイフレンドのケンと名前は忘れましたが(ビッキー?)女友達というが発売されてましたが、それは自分は持っていませんでした。

それからタミーちゃんは何人かわからないような顔。ブルーネット(茶髪)でセミロング。
頭がでかくて、足が短かったです。

この時の人形のクオリティーはバービー(マテル社)が完璧でしたね。
なんせアメリカが一番輝いてた時代ですから。
リカちゃんやタミーちゃんは手足が曲がる!!といっても、
中に針金がはいってるだけの文字通り子供だまし。(、、、なので、くにゃ〜ってまがるのですが、)バービーはカクカクまがるんです。未だに、どういうしかけなのかわかりません、、、。

その頃、男の子はサンダーバードでした。
私の弟も例外ではなく、すべて1号から5号まですべて持っていました。
しかし、私は一番年上だったので、私の命令は絶対的なもの。
妹と弟はかわいそうに、チョイスはほとんどなく、私はバービー!!妹はリカちゃん!!(タミーは田舎者なのでたまに現われるゲスト)弟は無理矢理、乗り物系!!

一番よくやったパターンは、バービーがサンダーバード一号にのって、お買い物!!
つまり、イケメンのスコットはじめ、サンダーバード全員は「出動!!」って言ったら、すぐ迎えにきてくれるバービーの運転手(パシリ)として使われていたのでした。


続く。

L*

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連載/瑪瑙ルンナ8

自分の事が専門のルンナです。
今回はそれに拍車をかけましょう。

「自慢!!」というやつ、です。(今までもさんざん、、、、、?)

今までは子供時代の回りの環境についていろいろ述べましたけど、肝心の自分はどうだったか??
(ここで言うのは、小学校低学年です。)

その頃、、、、、それがですね、「完璧」だったんですよ。

小学校入学の時、商店街の写真館で撮った写真を見るとその完璧さが一目でわかります。
もう自信満々な、傲慢とさえ思えるような笑みをうかべてます。
黄色い帽子にピンクのランドセル。(これはクラスで私ひとり。あとの女子生徒は全員赤でした)
そして、そのころ草履袋という(今から考えると、すごい言葉ですね!)上履きをいれるバッグがあったのですが。それがピンクでディズニーの百一匹ワンちゃんでした。これは何か理由があったのでしょうか?
母の趣味だったのでしょう。

後で、聞きましたが、写真館で撮るようなフォーマルな写真にそういう安っぽいキャラものを、
持っているというので、父の親戚の間では、私がかわいそうだと問題になったそうです。(もともと結婚にも不賛成でしたしね)
しかし、当の私は気に入っていました。ピンクのランドセルにピンクの上履き入れで、ディズニーは学校や幼稚園でもご推薦で、しかも唯一のキャラもの、そしてそのクオリティーも確かだった事はたしかです。


話がそれましたが、自慢を続けさせて頂きます。

まず、第一の自慢は、私は顔がかわいかったんです!!
子供にありがちなでっかい頭で、、、、。
(これが大人になってからはマイナスになるのですが、子供の頃はこれが利点になりました)
そして、頭もよかったです。(ほとんどが5段階評価の5)
運動も出来、運動会では、たいてい一位。学校内の絵のコンテスト、お習字のコンテストなどでは、かならず入選していました。
先生からも気にいられ、クラスでも人気者、人望もあり毎回一学期の学級委員をしてました。

その頃、学校のイベントで、学芸会というのがありました。
音楽の先生などが中心になってやる年に一回の一大イベントで、舞台にたてるのは学年200人くらいの中から、メインキャストの10人くらいで、あとは楽器、コーラスなどの音楽に回り、何も関われない人がほとんど。一方舞台に出る生徒は親がらみで衣装を作ったり、クラスが終わってからも残って練習をしたりで、学校側もかなりチカラをいれてました。

私が3年生の時の演目は、白雪姫でした。
そして、私は!!!
なんとその年、メインの「白雪姫」自身!!に選ばれたのでした!!!!
(これが原因で今でも「白雪姫」は他人とは思えない。少なくとも、親戚関係)

競争率は200分の1ですよ!!
勢いってスゴいですね〜〜。
ほんと、こわいもの知らず!です。
何も特別な事はしてないのに、何をやってもうまくいく!!!!
何をやっても注目され!!!愛され!!!評価される!!
今考えたら、この時が人生のピークでした。
(ここでこの自慢話は終わりにさせていただきます。)

そうですね、この白雪姫を境に、4年生くらいから、だんだん勢いが落ちてきました。

それは何故かというと、、、、。人生で最初に学んだ不条理です、、、、、。

「身体上の不利!!」

私は皆にくらべて、身長が伸びなくて「背が低い子供」になってしまったんです。
その頃の私はクラスでも二番目に小さくなってしまいました。
他の子はどんどん伸びて、運動なども体格の違いで先をこされてしまうようになりました。
大人のような体型の子供がどんどん現れてきて、そういう子が目立ち、もてはやされるようになりました。
チビの私はだんだんサイドの追いやられてゆきます。
ただ、急にというわけではなく、成績もまだよかったし、あいかわらず学年代表で式典などで挨拶をしたりなどは、ありました。

学芸会のキャスティングは毎年、話題の中心でした。
去年の白雪姫は今年はどうなる???という言ってみれば、ハリウッドのオスカー並みです。
その次の年は乙姫様でしたが、私に役はありませんでした。
(ちなみに、小学校最後の年は「裸の王様」だったのですが、私は「詐欺師の洋服屋」で返り咲きました。今考えると、白雪姫より、自分の人生はこっち!!だったんですね)

その他に、だんだん私のピークが衰退している例として、部活でソフト部にはいっていたのですが、私は最初、ショートだったのですが、背が低いというだけでセカンドになってしまい、これは屈辱でした。
ショートというのは、勢いのあるボールがよくくるし、ファーストに送球してもかっこいいので、自分的にはすごく気に入っていたのです。ところがセカンドというのは、ボールがきても、当たりそこないみたいなものが多く、送球する機会の多いファーストも近いので、なんか「ひょい」ってかんじで、投げる派手さがないですしね。打席はずっと一番バッターだったんで、もちろん3番、4番はもっと体格のいい子でした。

それから、学校とは別に地域でやっている「鼓笛隊」というマーチング・バンドがあったんです。
ボーイ・スカウトのようなユニフォームを着て、町のイベント等に呼ばれて、演奏をするのです。

そこでも、そういう大人のような体型の子が花形で、バトン・ガール(チアガールのようなもの)になっていました。これは他の学校の子も参加していたので、コミュニティーの中から選び抜かれたものすごいかわいい子ばっかりでした。
そこで私に与えられた担当はベルリラという楽器でした。
テッキンをクビからぶら下げて立ったままとか、歩きながら叩くヤツです。
小柄だった私にはこれは重かったです。地面に埋まりそうでした。

一時は白雪姫までやったのに、今では、重い楽器をクビからぶら下げて歩きまわるサーカスのピエロ!ハリウッドの落ちぶれ大女優の気持ちを10歳にして体験しました。

音楽といえば、母は私と妹をヤマハ音楽教室というのに通わせていました。
これは門司港をはなれ、隣町の小倉にありました。小倉は門司港より都会で、これに通うのに家族みんなでオシャレをして出かけていきました。
ここでは、子供に楽器全般を親しませるという目的だったらしいのですが、私の担当はなぜかいつも、カスタネットかトライアングルで、(ピアノや吹奏楽器などがあるにもかかわらず、です。)
母が先生に文句を言っていたのを子供ながらに覚えています。(母、強し!)
そのリベンジかなんか知りませんけど、その後、ピアノを7年間も習わされました。
この頃は女の子はピアノを習うのはわりと普通でしたが、私は本当に嫌いでしたね。
練習も嫌いだったし、やっていて何のおもしろみもありませんでした。
鼓笛隊でベルリラ担当になった理由も、私が「ピアノを習ってるから、鍵盤になれているだろう」という事だったらしいので、ピアノをもっと恨みました。

この私のストレートでない音楽体験は、この後の私の人生に、そして今でも、チラチラを顔を出すようになるんです。

今思うと、ヤマハ音楽教室の先生は先見があったのですよ。
私は鍵盤じゃなくて、リズムなんですよね。鼓笛隊の時もバトンガールじゃなくても、せいぜい小太鼓がやりたかったです。小太鼓をやってる子達は振り付けがあったりして、楽しそうでした。イギリスのバンド、フーのドラマーのキース・ムーンのような。。。。(ホントかい?)

ま、でもだからといって、人生、捨てた訳じゃありませんよ。まだ子供ですからね。笑
先が長いです。

そういう風に不条理を学びながら、夢中になったのは、、、、、、、そうです!!
その頃、世間で騒がれていたグループ・サウンズでした。

L*

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連載/瑪瑙ルンナ7

7回目になりました、、、、。
だんだん、書くのもスローダウンしてきました。
こんなもん誰か、読んでくれてるのでしょうか?(という疑問、、、)

こんなどうでもいいような事を、つらつら書くのはただの暇つぶし、、かもしれません。
でも、いいんです。
山のこだまのように、「ヤッホー」と呼んでみて、自分の声が
ヤッホー〜、ヤッホー〜〜〜、ヤッホー〜〜〜〜〜〜ヤッホー〜〜〜〜〜〜〜〜
(注;だんだん字が小さくなっていってください。)
ああ、自分は自分なんだ、自分にしかわからない自分が自分に戻ってくる。これだけでいいような気もします。
それにしても自分の、小さい頃の覚えている限りの記憶を書いていくというのは、面白い作業ですね。
これは他人様には、わからないでしょうね。
自分の事は自分が一番おもしろいです。 人にはわかりません、自分の事なんで。

でも、よく自分の事ばっかり話す人がいますが、面白くない話が多くないですか?(例外もありますけど)
話が面白くない人に限って自分トークが多いように感じます。
「アタシってぇ〜こういう人なの〜」と言われると、吐き気がします。
表面的には「へえ、そうなんだぁ〜」と、かわしてますけど、
心では「それがどうしたぁ〜〜??」と吐き気をもよおしています。

なので私も他人様に吐き気を与えてるのかもしれませんが、
ま、そんな事は、私の知ったこっちゃない、、、と、しときましょう。

で、「自分トーク」続けます。

以前、私が行ってた幼稚園の話をしましたけど、その写真がウェブに出てたんです!!
ちょっと調べてみたら、すぐ写真がありました。

これは戦前の絵はがきのサイトなんですが。
この上の写真は関係ないですので、忘れてください。
下のを見てください。

コレですよ!!真ん中にまる丸い屋根の建物が私の行った幼稚園です。
すごいですね。絵はがきになるなんて!!
左下に見えるのが、火事になったという仏教系の幼稚園です。
ちなみに右に見える塔は、英霊を奉ってある記念塔で、今でもあります。


Block_image1_14

あと、ここにもありました。建築家のサイトです。
この上の写真です。
(下のは関係ないです)
クリスチャン系の幼稚園でYACAがやってました。
今見ても、素敵な建物ですね。でももう取り壊されたそうです。


Block_line1_14


非常に貴重な映像が見つかり、ネットってすごいですねー。

と、いう結論で今回は軽く終わります。
L*

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連載/瑪瑙ルンナ6

母は養女でした。
米屋のじいちゃんばあちゃんは、本当の親ではなく、実の両親は、ばあちゃんの姉夫婦だったのです。
それを聞いた時はちょっとショックでした。「自分のそばにいるじいちゃん、ばあちゃんは本当のじいちゃん、ばあちゃんじゃないんだ、、、、」と思って。
でも、その頃は戦争や病気などで片親になる事が、そんなに珍しくなく、世間一般でもよくあったみたいで、そういう題材をあつかった、継母ストーリーというのがポピュラーだったんですよ。時代の風潮っていうか、、、。なので、子供の自分はかえってそういう流行のストーリーの主人公になったみたいで、その感情にひたっていました。英語だと、ドラマ・クウィーンですね。

実際の話はですね、、。
実の祖父は妻が肺病で亡くなったので、5人いた子供を長男だけ手元に残し、あとは親戚中に養子、養女の出したのです。母の親戚は、絆がとても強く、養子、養女に出したといっても、皆でしょっちゅう集まっていたので、子供にとってそこまで残酷な事でもなかったように思います。
母は兄姉弟がバラバラになってしまったので、皆で遊べなくなったので、淋しかったとは言ってましたが、親を恨むというのは、なかったように思います。
私が小さい頃の記憶では、母の実兄や弟の所で頻繁に法事があり親戚中が20人くらい集まり、しょっちゅう、まあ、お食事会というか、飲めや歌えやの会合だったと思います。カラオケはまだありませんでしたけれど、長男がアコーディオンを弾いて、ばあちゃんや他の親戚のおいちゃんが歌ったり、麻雀をやったり花札をやったりしてました。もちろん、お金もかけてました。今でいう賭博ですね。(汗)でも、やってる時はものすごく盛り上がってました。


母の5人の兄妹を紹介します。
一番上の長男。
その頃は実父と同居していました。本家を継ぐとか、、、ま、そういう事です。
本家は敷地が大きく畑があって、その中に精米所や家畜の飼料の工場、養鶏所などがあり、今になってそれらを思い出す限り、本当の祖父も長男のおいちゃんもなかなかの実業家だっんですね。
本当の祖父はあまり子供と遊んだりしなかったので、あまり覚えていませんが、新しいものが好きで、子供の私からみると、なかなか文化的なおいちゃんでした。
そこには生まれて始めて見たものがたくさんありました。
たとえば、三面鏡。テープレコーダー。それからリビングに日本の画集などもおいてあり、それをこっそり、めくって「地獄絵」というものを始めてそこで見ました。子供にはかなり印象的なものでした。

その下の長女はもう結婚していたので、あまり交流はありませんでしたが、ものすごく美人で、商社の人と結婚し、神戸の芦屋の、当時出来た始めての「マンション」というところに住んでおり、(それまではアパートというものしか存在しなかった)うちの家族は、大阪万博の時に始めてそこにお邪魔したのですが、マンションとアパートとそんなに変わらなかったのを覚えています、、、、。
違いはエレベーターがあるかないかという事ぐらいでしょうかね、、、。自分の住んでいるところにエレベーターがある(つまりビルディングに住む)というのが、かなり画期的な未来的な時代でしたから。

そのおばちゃんはその後、病気になり、まもなく亡くなりした。
それ以後、ウチの家族とはまったく交流がなくなりました。

そして、次女の大阪の嫁いだおばちゃんも体が弱かったのを覚えています。二回結婚しました。

そして、母とその弟です。
ふたりは近いところに住んでいたせいもあって、とても仲がよかったです。
我々もしょっちゅう、そのおいちゃんの家にお邪魔してました。
カラーテレビがウチにはなかった時も、ここにおじゃまして、「サザエさん」を見せてもらったりしていたので、ウチよりリッチだったのは間違いないですね。

その家というのがカッコよかったです。門司港でも一番景色のいい丘のテッペンにあり、大正モダンでした。決して広い家ではありませんでしたが、庭は錦ゴイが泳ぎ、馬をつなぐ小屋がありました。玄関は横にスライドするものではなく、スイング式のドアで、そして中央にダイヤ型にくりぬいたステンドグラスの窓がついていて、玄関もタイルで六角形でした。
景色のよい居間は小さかったけれど、掘りごたつで、窓は出窓のフレンチ・ウインドウ、客間は日本間で、居間よりも広く、ふすまを挟んでふたつありました。床の間があり、そのに兜の見本が置いてありました。

その頃の日本の家というは、建て増しなどを繰り返し、日本式と洋風がまざりあって和洋折衷というような家があたりまえでした。
石原祐次郎やクレイジーキャッツなどの映画にもあるように、日本間に洋風家具なんてものも普通でしたから、今思えば、不思議ですけど、、、、。

あ、今回はなんか覚えてることをつらつら書くだけになってしまいました。
すみません、この辺できりがないので、やめます、、、、。突然ですが、さようなら。
L*

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連載/瑪瑙ルンナ3

その幼稚園での出来事は、自分でもびっくりするくらい覚えていて、とても印象的だったのでしょうね、未だに脳みその淵にこびりついています。

夏の夜には集まって「げんとうかい」(「幻灯会」って書くのかな?)と呼ばれていた、つまりスライド・ショーをやってました。何をやっていたのか、くわしくは覚えていませんが。
そして冬は学芸会(っていうんでしょうか?)クリスチャン系だったので、毎年クリスマスに劇をやるのですね。つまり聖書からの「キリストの誕生」です。
それはマリア様の役が一番メインなわけですが、どこかのリッチな家の娘がそれをやっていましたね。
ヨハネはその次にリッチな家の息子。そしてその次にリッチな家の息子は羊飼い、、、、、。
その次は羊。。。。。。と、まあ、いろいろ政治的なものがあったのでありましょう。

で、問題の私の役は???何だったかというと、「キリストの誕生を告げる流れ星」!!!
そう、舞台にあがって、台詞もなく頭に星をつけて、クルクル回って、あっという間に消える、、、。今考えたら、私にピッタシの役!!
その時にすでに私の運命は決まった!といっても過言ではありませんよーーー。

今思い返してみると、いろんな所に未来の予言的なものが散らばってるものですねーー。


私は母方の祖父母のお米屋さんに小学校二年まで預けられてました。
幼稚園から小学校低学年まで、母が仕事が終わって迎えにくるまで、そのお米屋で時間をつぶし、母といっしょに本当の家に帰るという毎日だったので、自分には家がふたつあるような気がしていました。裏を返せば、「自分はここにいるけれども、本当の自分がいるべき場所はここではない」という、アウトサイダー的感覚が身についていったような気がします。
祖父母の家の近所で自分が遊んでいた友達や場所でさえ、何かテンポラリーな一時的な場所のような気がしていました。だからといって、母と戻る本当の家は何か休日だけそこで過ごすような別宅のような気さえしていました。

両親と住んでいた家はずっと山の方の行き止まりのストリートにあり、裏はもう山の中でした。
すぐ裏は竹林で、タケノコとかもとれました。
二軒が一棟でくっついた、アメリカでいえば、デュープレックスですね。そういうときこえはいいですが、ただの長屋です。でも屋根裏部屋などもあり、日本間が二つ、洋間がふたつの変なつくりの家でした。
くっついているお隣には私より一つ年上の、巻き毛の髪のオトコのコがいて、母は「マンボちゃん」と呼んでいました。なぜかというと、当時はやった、細身のパンツ、「マンボ・ズボン」をはいていたからです。ラテンがはやったころですねー。
ちなみに私もたまに細身のパンツをはいていたのですが、私は場合、当時の人気プロレスラー「力道山」と言われてました。よっぽどタフに見えたのでありましょう。
自分自身もそんなイメージが気に入っていました。


L*

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連載/瑪瑙ルンナ2

前回からのつづきです。

私はクリスチャン系の幼稚園にはいり(もちろん親の趣味で)すぐ下に仏教系の幼稚園がありました。
門司港というところは地形的に平野がないんです。サンフランシスコのように山からすぐ海です。
どこの家からもボールを投げると、必ず海まで転がります。
どこに行くにも、坂です。登っておりて登って降りる。
海の近くの繁華街は除いて、ほとんどの家は坂の斜面に立っています。
その繁華街や港の近くはその頃は「下地区」と呼ばれており、地形的に少し登ると「中地区」そして山の方は「上地区」、いわゆる上中下という名前だったので、後で住民から苦情がきて、そういう呼び方は廃止になったそうです。

この幼稚園のある地域も例外ではなく、そして決して深い意味はないのでしょうが、上下に隣り合わせでした。でも入り口は隣同士ではなく、洋風クリスチャンの方は上のストリートに。和風仏教の方は下のストリートに入り口があって、つまりお互いの裏口の段差の部分がくっついているという具合ですね。
つまりこの洋風幼稚園が和風幼稚園を見下ろしているような位置関係です。

クリスチャン系幼稚園ですが、今思うに、張りつけのジーザースの絵などは幼稚園にはなかったですね。
十字架自体もなかったです。どういう宗派だったのかはわかりません。ただ日曜は、日曜学校といって、教会に行かなければならず、聖書の言葉を毎日一言ずつ園児に言わせるというのがありました。

一方の仏教系和風幼稚園は、元々はお寺さんだけだったんでしょうね。幼稚園の中にお仏壇があったんです。教室はその仏壇の建物のとなりにあったのでしょうが、入り口はいったすぐにものすごく大きな仏壇があったんです。そこでお葬式などもやっていました。
なので子供としては、ちょっと近寄リがたくってコワい。。。。

今でも日本のへんな習慣として結婚式は教会でドレス。お葬式はお寺さん=仏教っていうのが自然にありますよね。
つまり子供心に平面に並べるとですね、、、、、

西洋=教会の結婚式=ハッピー
和風=お寺のお葬式=不幸

というきわめてシンプルな図式になるわけです。
子供というのは、今も昔もわかりやすいのが好きですから。

で、この図式をはっきりと証明するような事件がおきたんですよ。

前述したように洋風幼稚園は丘の上にあったので、景色もよく、海が見え、山が見えました。そしてすぐしたに和風幼稚園です。
その日はとても晴れて快晴だったんです。
今でも覚えているのですが、クラス中でした。先生がおしゃべりしていました。
窓の外は青い空。そして、ぼんやり外を眺めていたら、その窓枠の下にものすごい、、、、。
何でしょうか?
ぎょえ〜!「火」であります!!
それ自体が生き物のように。。。炎の上としたがひらひらと手招きをしているかのように、
火の固まりが大きくなったり小さくなったり、まるで怪獣のようでした。

そうです、その和風幼稚園が、メラメラとものすごい勢いで燃えていたのですよ。
今思えば、とてもシュールな瞬間です。
窓の内側では園児がお遊戯。外では真っ赤な炎。そして青い空、、、、、。

先生はすぐ園児を非難させました。
父兄たちがぞくぞくと幼稚園に現れ、園児は帰宅させられました。

後で知ったのですが、火事の原因は仏壇のろうそくの火だったのです。
そうか〜〜〜〜やっぱりなぁ〜〜〜!!!!ですよ。

和風→仏壇→ろうそく→火事→不幸

その時4歳の私は再び確認したに違いありません。

「やはり「和」はこわい!!」と。

つづく。

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実録/瑪瑙ルンナ1

ワタクシ、生まれは昭和です。って、当たり前か。(汗)
いつ生まれたかという正確な年代は伏せさせて頂きます。(でも調べたらすぐわかります)

、、、、、、時は、「戦後まもなく」とでも、しておきましょう。

場所は福岡県の北九州市の門司港というところです。
九州の一番先っちょで、山口県が海をはさんで見えます。演歌でおなじみの海峡っていうヤツですね。
関門海峡っていうんですけど、川みたいに向こう側が見えるんです。
今では関門大橋っていう立派な橋がかかってますけど、その当時は橋なんてなくて、山口県に行くのは船でした。船だと15分くらいです。

門司港の歴史というのは、大変興味深く、地理的に中国大陸に一番近い場所なんですね。
なので、昔から港町として大変栄えて、1800年の終わり(明治の終わり頃)に「鉄道」というものが出来た頃は、大陸貿易との拠点となり景気もよく、もういろんな人が出入りして、「門司港に行って、一旗揚げる」みたいな風潮があったらしいです。(情報元=祖父)なんせ、天皇様もいらっしゃったくらいですから。
戦争バブルで毎晩パーティー、パーティーで芸者挙げての乱痴気パーティーを繰り広げていたらしい。
(情報元=父)
貿易で栄えて大陸文化との交流もあったらしいです。満州とか大連帰りがカッコいい!みたいな。(情報元=親戚のおばちゃん)

ところがですね、その繁栄が衰退していきます。戦後になって中国との貿易がなくなりました。そして関門トンネルという海底トンネルなどができて、(それは門司港は通過されてしまい)お隣の小倉というところに人気が移行してしまいました。
門司港は大学などもないので、若い人はどんどん町を離れ、斜陽都市さながら、活気のない町となってしまいつつある時。。。。。。。
この時点で私が生まれてしまいました。は〜〜。運命のはじまりです。

あ、ここで、私を作ったウチの両親についてです。
ウチの両親は大学で知り合いました。当時の父はモテてたそうです。(情報元=母)苦笑
郷ひろみみたいだったらしい。(情報元=父自身)汗
その頃は結婚というのは「お見合い」がまだまだ主流で、大学で知り合って恋愛結婚というのは、めずらしかったと思います。

父のファミリーですが、元々山口県の未だに家系図がのこっているような裕福な農家の出身なのですが、祖父がエンジニア志望で農家を継がず、国鉄にはいって(当時の花形職業)しまったので、その都合で全国を点々としたそうです。その後、祖父は結局、東京に落ち着くのですが、父は大学のある福岡にとどまり母と知り合いました。

母の方も山口県の農家(のはず)なのですが、農業というジミな印象ではなくて、貿易関係や市会議員、実業家などの親戚がやたらと多く、パッションとノリで生きているような叩き上げなかんじで、子供ながらに覚えているのは、やり手な大人がしょっちゅう集まって飲めや歌えやで、何やら享楽的で派手な一族という印象でした。

なので、父の方はお上品で良識もある親戚だったので「おじいちゃま、おばあちゃま」と呼んでいましたけど、母方はファンキーなんで「じーちゃん、ばーちゃん」でしたね。
事実、ばあちゃんは色が黒くてサングラスかけてるとこなんかは、「モータウンまんま」でしたよ。

そんなだったんで、父と母の結婚は父の家族は反対して、結婚式には、祖父だけしか出席しなかったらしいです。

えっと、私自身の誕生にもどります。

私が生まれたのは、H産婦人科というところです。、、、、あ、名前は伏せます。
なんで覚えているかというと、子供の頃、ばあちゃんがその前を通るたびに、「ここでアンタが生まれたんよ」って言ってたからです。その後、その病院はなくなってしまい、その時は、ばあちゃんは「子供いっぱい、おろしたけ、つぶれてしもたんやろ」と子供の私に言ってました。汗
考えたら、その頃はコンドームなどの避妊はポピュラーではなかったから、産婦人科も半分「闇の業務」をやっていたのでしょうね。合掌。

私は最初の子供だったので、両親の期待、また祖父母の期待を一杯に背負って生まれました。
愛されまくって、いろんなものをを食べさせられて、ものすごいデブでした。

生まれた時は父は小学校の教師、母は中学校の教師をやっていました。
母は私が生まれてからも仕事をやめなかったので、私は祖父母に預けられていました。
その頃、母の両親は門司港でお米屋さんをやっていたので、そこで生まれてから小学校2年生まで母が迎えにくるまでの時間を過ごしていました。

今から考えると、、、、。幸か不幸か、そのお米屋のロケイションがスゴかったんですよ。
その一角、わずか50メートル四方にあったもの、そこに住んでた人々。
いわゆる自分の原風景ですね。。。。

まず、となりがヤクザの家族。(全身入れ墨のヤクザのおいちゃんは、子供にはやさしかった)
左隣は剣道をやってる高校教師の家族。
その隣は超金持ちで庭もひろく、ものすごい門構えで顔もみたことない。
その前に在日コリアンの家族。(娘が仲良し)
斜め前には家に台所もないような長屋。(井戸を共同で使っていた)
そのとなりに駄菓子屋、その前が美容室。
そのとなりがクリスチャンの教会(ステンドグラスがプラスティックだった)
その前に天理教のお寺。。。。その反対側には銭湯、、、、、、。
50メートルから100メートルに広げるともっとすごいです。
花札の賭場(ここをやっていた娘は、秀才で毎年学級委員)もありました。
そして、散髪屋にクリーニング屋。文房具屋。
少しは慣れたところに、ブラックの男の子が住んでいて、でも母親とそのおばあちゃんと住んでいました。今から考えると戦争花嫁さんの息子さんでしょうね。我々と同じように日本語で、同じ学校に行き、普通に生活してました。

濃い!!!濃すぎるご近所でしょう?

そして、となりのヤクザの家族に双子姉妹。角の美容室にも双子の姉妹がいました。
ヤクザの双子はよく色違いのカーディガンを着ていて、走っている時の後ろ姿はその裾が後ろになびくので、マント状態!!
そして美容室の双子はふたりともいつも頭を盛っていて、頭がデカい!!
その上、いつもいっしょにいるんです。

マントの双子!盛りズラの双子!!
スゴくないですか?
おそろしい子供環境です。理想的?かもしれませんが。

二つで思い出しましたけど。
ちょっと行くと幼稚園がふたつあって、一つは丘の上、クリスチャン系の幼稚園。
もう一つは坂を下ったところに仏教系幼稚園があって、このふたつが文字通り、しのぎをけずっていたんですよ。
クリスチャン系の幼稚園は全てが洋風。建築もディズニーみたいな白い壁でできたローマ風の建物。景色のいいところにあって、いかにも西洋化ぶれしたようなところでした。(もちろん、私はここに行きました)
くらべて、仏教系の幼稚園は外からちょっと覗くと、仏壇やろうそくが見えて、暗くておどろおどろしい雰囲気で、子供ながらに「ここの幼稚園じゃなくってよかった」と思ってました。
入り口もクリスチャン系幼稚園は、王子様がその向こうに待っているようなかわいい洋風ゲイト!でしたけど、仏教系の幼稚園は、クロサワ監督の隠し砦のサムライが来そうなお寺の門!!!でしたから。

そしてこの私の直感を証明するような事件があったんです。

つづく。

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予告「実録/瑪瑙ルンナ」

長い事、このココログちゃんをほったらかしにしてたので、さぞかし、だれも見てもらってないだろうと思ってましたが、平均のアクセスは4人で、前と同じでした、、、、、。

最近はミクシィもやってなくて、長い文章を書くのは時間もかかるし、ついツイッターだけになっていたんですよー。

そこで、こういう状況もいかがなものか?と頭を悩ましておりましたところ、名案を思いつきました!!
よく、聞かれるんです。なんでアメリカにすんでるんですかぁ〜?と。
今の旦那さんとどうやって知り合ったんですかぁ〜?と。

それにお答えするべく、自分のやってきた事を全部、子供の頃からまとめて書いて本にしてみようと。

つまり自分は北九州市門司港というところに生まれて、東京からアメリカに渡り、国際結婚をして、なんで今、ロス・アンジェルスにいてこんな生活を送ってしまっているのか?という、「人生の言い訳」ですね。

熟女になりますと、人生経験も豊富になり、語る事は山のようにありますからね。
いろんな人に逢いました。助けられました。嫌われました。愛されました。蹴落とされました。ビッチな頃もありました、、、、、そして後悔や懺悔、、、、、エトセトラ。

おかげで、最近は悪知恵もついてきて頭もよくなってきましたので、自分のやってきたことをわりと冷静に、かつ細かいくさかのぼっていけると思うのです。

ま、最初にして最後の「暴露本」!!!!!???笑
誰も書いた事のない、。。。。。。おそらく将来だれも書く事のない本!!!
それを実現する人は自分以外、誰もいません!(そりゃそうだ)

で、まずタイトルなんですけど、
「シンガーソーイング・アーティストの仁義なき戦い/なんでこうなったのか?なう」
に、したかったのですが、あまりに長いので、とりあえず、「実録/瑪瑙ルンナ」にしときます。略して「実ルン」です。(お気軽にお使いください)

無理のないかんじで、少しづつ書いていきたいと思うので、気長におつきあいください。
それでは、次回をお楽しみに。さようなら。

L*

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トム・フォード「シングル・マン」と中年の鬱

ファッション・デザイナーだからって、タカをくくってはいけない。
映画だって、撮れるのだ!!

という、訳で、なかりよかったです。

そこいらのくだらないハイウッドの映画よりは何百倍もいいです。
テキサス出身のアメリカ人がグッチをあれだけ、引っ張っていっただけでなく、映画をとってもコレですよ〜!すごいなあ。

ただ。

私自身は、こういうディプレッションがテーマの映画はあまり見たくないです。どんよりしたあのミッドエイジ ・クライシスがコワい。
実際、自分の回りにもかなり重度の人がいますしね。

ミッドエイジ ・クライシスとは日本語に訳すと、どうなるのでしょう?
中年鬱病症候群とでも言うのでしょうか?
今まで必死で頑張って来て、気がついたら、自分の人生、これでいいのか?と鬱状態になってしまう、、、、。

トム・フォードがインタビューでこの、ミッドエイジ・クライシスの事を「壁にハシゴをかけて、必死で上まで上っていくと、あれ? 違う壁だった、と気がつくようなもの」と表現してましたが、まさに!!言い当てています!

これはある程度、上まで登り詰めた人だからこそ。。。。という気もします。途中までしか登ってない人は、壁が違うと気がつかないでしょうしね。

しかし、どっちにしても、中年になると大なり小なり皆あるのではないでしょうか? 人によって、ハシゴの高さも違うし、壁の厚ささまざまであるでしょうが、、、。


ウチの夫の場合はどうかというと、ハシゴに上れないくらいバランス感覚がないので、(自転車にも乗れない、泳げないし)=手の届くところまでの壁しか見えない。
なので、ラッキーな事にミッドエイジ・クライシスはないみたいですね。上に行けなくて、ただカニさんのように左右に移動してるだけですから。

私の場合は逆で、ハシゴが多すぎるんですよ。
いろんな壁にたくさんのハシゴをかけて。。。。
そして、それに登ったり降りたりしている間に、ハシゴ自体が丈夫になってしまい、壁なんかどうでもよくなってしまったケース。これまたどうなんでしょう??つまり、ボタンのかけ違いだと気がついても、ボタン自体を増やして、無理矢理つじつまを合わせている状態ですね、、、。

ともかく。。。。人生、何がいいか悪いのかわかりませんが、
中年の皆様!! 
自殺はいかんですヨーーーーーー!!
MAKE LOVE NOT SUICIDE!!

L*

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